まちづくりへの想い

昭和47年(1972年)の開発当初から35年以上が経過した「丸の内町」。時間をかけた街づくりにより、今も尚、ゆっくりとしたペースで成長し続けています。開発者の想いを是非ご覧ください。

村田興産株式会社 代表取締役会長 村田 完次

昭和47年、この地に住宅地の開発を夢見て、田畑に関する何の知識も無いまま約95名の知見に開発計画を説明し、譲渡をお願いしたところ、この附近の田は在所からも近く、又1反当りの収穫量が多く、蔵田と呼ばれる美田であり、私の無茶なお願いに地権者のお叱りを受けました。
反対意見の多い中で会合を重ねた結果、幸いにも全員のご賛同を得ることが出来、皆様の温かいご協力、ご支援を感謝すると共に、大切な田畑をお譲り下さった地権者並びに地域の方々に報いるためには、将来に亘って地域に愛され喜ばれる立派な住宅地を開発することを心に刻みました。
その為に、優良な造成工事は言うに及ばず、開発した住宅地に住いされる人々の住んでよかったと感じてもらえる環境づくり、更には新しい住民と地域住民との心の融合により楽しい生活の場を提供する住宅地作りを常に心掛けてまいりました。

第一次石油危機に遭遇し、苦労もありましたが、昭和49年に522区画の住宅地が竣工し、その後1年間を費やして、住宅地区画番号と住所・地番を同一にするために旧町名を封鎖して「丸の内町」に町名を変更したこと。近江八幡市の新都市計画法の施工に伴う用途地域の決定に当り、当初開発に反対された地権者や地域の大勢の人達が近江八幡市庁及び滋賀県庁に陳情を繰り返して下さり、第一種住居地域に決定した時は、この造成地に魂を入れてもらった気がして感激したこと。夏祭りや盆踊りを催し、他地域から多くのチームが参加してくださったこと等々を懐かしく想い出します。

昭和50年に第1回の分譲を開始して、多くのお客様のご愛顧を得て、約450戸の人達が住まわれましたが、経年と共に住宅地自体が老化してきました。 開発業者として、いつまでもこの住宅地が生き生きと活気に満ちた明るい住いであって欲しいと願って、企画も新たに分譲を再開し住環境の更なる改善に努めております。

優良な住宅地は、そこに住まわれる人達と地域の人達及び私達開発業者が協力し合って作り上げるものであり、初心を忘れることなくいつまでもこの気持ちを持ち続けたいと思います。

村田興産株式会社 代表取締役会長
村田 完次

昭和47年(1972年)の開発当初から35年以上が経過した「丸の内町」。時間をかけた街づくりにより、今も尚、ゆっくりとしたペースで成長し続けています。

PAGE TOP

お問い合わせはこちらまで「丸の内ハウジングギャラリー」 0120-0748-50

事業主(売主)muratec(村田機械グループ)「村田興産株式会社」「丸の内ハウジングギャラリー」