面積 | 約12万m² | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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位置 | 北緯36度06分、東経136度03分 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
気候 |
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人口 | 1407人(男性708人、女性699人) (平成19年度) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
世帯数 | 496世帯 (一戸建住宅488戸(98.39%)、集合住宅4棟8戸(1.61%)) ※平成21年5月 |
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平均世帯人員 | 2.96人/世帯(全国平均2.55人/世帯) ※平成17年国勢調査 |
昭和47年(1972年) 地元住民の合意。写真は地鎮祭の様子 |
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昭和48年(1973年) 農地転用の許可を得て、宅地造成工事着工。 |
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昭和49年(1974年) 宅地造成工事完了。その後、町名の変更と統一。 |
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昭和50年(1975年) 丸の内町の誕生、宅地分譲開始。写真は当時の現地案内バス。 |
この地の開発の歴史は、昭和47年(1972年)までさかのぼります。
当社会長の村田が、丸の内団地の近くを流れる日野川の土手に登って見下ろした時、八幡山に見守られている安心感、そして「明るく気持ちのいいスカッとした土地」であった事が決めてとなり、当時は田んぼだったこの地の地主さんに1軒1軒買収交渉を重ねました。
地主さんによる多数決の結果、わずか1票差で売却が決まったのですが、村田はその1票差が気にかかり、「この売却によりみなさんの関係が崩れるようであれば私どもは潔く撤退します」と語り、その後も話し合いや議論を重ねる中で、最終的には円滑な買収となり、その後の開発でも地主さん達には最大の協力者となっていただきました。
開発前、この地にはいくつかの町名が混在していましたが、新しい町の移り住む人たちに町への愛着を持っていただき、町の価値を生み出したいとの想いから数々の手続きを経て、町名の変更と統一を行い、昭和50年に『近江八幡市丸の内町』が誕生しました。
因みに、「丸の内」とは「まちの中心」を表し、「人々が集う場」を意味します。
- 【一般の住宅開発】
- 【丸の内町の「ゆっくり開発」】
写真左側が日野側、右方向には八幡山というロケーション。
豊かな田園風景の中、 240戸の家が建っているのですが、分譲地は点在しています。
丸の内町は、昭和50年(1975年)から販売を開始。実はそれから30年以上経った今でも分譲と宅地開発は続けられています。
丸の内町の分譲において、他の分譲地と決定的に違うのが、「早急な開発をしない」という点です。
早急な開発は時として、購入者層の年代や収入などが偏ってしまうことがあります。そうなると、経年と共に町も住民も一様に高齢化し、後は衰退するのみという事態に陥ります。急激に成長したものは急激に衰えてしまうことがあるのです。
幅広い層の人が暮らす街には、住み続けることへの安心感があり、いつも新鮮な息吹を感じるものです。その為の「ゆっくり開発」のコンセプトです。
丸の内町では自治会のお祭りやカルチャースクール、フリーマーケット、美術展など住民活動が活発に行われています。
当然、住民同士のコミュニケーションも円滑で、まさに街が生きていると感じます。
そして、お祭りには丸の内町の周りの町の住民にも声をかけ参加してもらいます。丸の内町だけが孤立してしまっては住みやすい街にはならない為です。
丸の内町が「住みたい街」、「住んでよかったと思える街」であり続ける為、ひとりの街の住民としてこれからも、いろいろなお手伝いをしていきたいと思います。